岩村城下町
岩村藩三万石の城下町として栄えてきた岩村町は、今なおいたる所に城下町の風情を残している。岩村川に沿って細長くつくられた商人の町、平らなかわらをはりつけその間にしっくいを盛りあげたナマコ壁、武者窓のある旧家等。日本三大山城の一つである岩村城址はそんな城下町を静かに見おろしている。
中山道大井宿
大井宿は、恵那市のほぼ中心部にあった。宿長は六町半(710m)、宿場の範囲は、東の五妙坂の高札場から西の大井橋までで、東の方から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場町があり、宿内に枡形が6カ所設けられたが、今も残っている。また、保全整備に力が注がれ、ことに宿内の歩道の石畳や用水路の敷設、電柱の移設などが行われてきた。その努力が実って、かつての宿場の町並みが次第によみがえりつつある。建造物として見るべきものに、本陣表門、本陣長屋門、古山家、林家、岩井家、橋本屋、新角屋などが残る。平成12年9月に古山家を改築し、ひし屋資料館としてオープンしました。
落合宿
本陣は江戸時代に焼け、その後に再建された。立派な門が人目をひき、土蔵造りの母屋がある。向かいには脇本陣があり、往時をしのぶ家並みが残る。中山道の美濃路最後の宿場だった。十曲峠へ登る道は中山道だ。石で山道を舗装した石畳があり、登りつめると島崎藤村筆の「是より北 木曽路」の碑や芭蕉の句碑「おくられつ おくりつ果は 木曽の穐」がある。藤村の出生地馬篭宿(長野県木曽郡山口村)はここから約3km。近くに落合峡が広がり、桜や紅葉が美しい。
細久手宿
大湫宿から5.9km・御嵩宿まで11.8km。宿長3町45間(480m)・宿内戸数55〜70戸であった。大湫宿と同じくらい小さい宿場。旅籠屋は24〜35軒で、約2軒に1軒の割合に旅篭があったことになる。今も観音堂や尾州藩の御定宿であった旅館「大黒屋」が残っている。
太田宿中山道会館
太田宿中山道会館は、観光・文化・交流をテーマにした来訪者と市民との出会いの場となる施設です。旅は未知との出会い、人との出会いから感動が生まれ、旅人は旅をする喜びを知ります。かつて、多くの旅人がここ太田宿で足を休めました。あなたも太田宿のときを過ごしてみませんか。太田宿中山道会館は太田宿散策のビジターセンターです。太田宿をめぐる旅は太田宿中山道会館から始まります。
岐阜県美濃加茂市太田本町3-3-31
太田宿
木曽川に面し、中山道の難所「太田の渡し」がある旧宿場町。太田宿には18世紀末頃建てられた脇本陣林家住宅が残り、林家付近には大型の町家が多く、道幅が広くなっている。町家は切妻造、平入で2階は低く、棧瓦葺である。国道21号はバイパスとなっているので宿場内の中山道は旧状を崩していない。
中津川宿
東濃・美濃9宿の中では、大名通行や姫宮通行の休泊で一番利用された中津川宿本陣があった。うだつのある家・ます形・旧庄屋屋敷などが残る古い町並み。東から茶屋坂、淀川町、新町、本町、下町と続き、宿の中心あたりを四ツ目川が流れている。町の中枢に当たる本町に本陣があった。
大湫宿
慶長9年(1604)中山道に開かれた宿場。脇本陣の建物が残り、問屋場跡・高札場跡・観音堂・神明神社などがある。樹齢1300年以上という大きな杉がそびえる。近くに琵琶峠の石畳があり、約700mにわたって旧中山道の面影を残す。
明智町
明智町は、宝治元年(1247)に遠山氏によって明智城が創築され、近世は中馬街道と南北街道の交差する交通の要所として、また明治に入ると生糸の生産などによって発展しにぎわってきた町であった。しかし、第2次大戦後、産業の不振や産業構造の変化により、明智の過疎化が進み、町起こし運動として「日本大正村」が誕生。大正時代の生活文化を後世に伝えるため、明智の古い建物、街道、町並み、風俗が保存されている。