坂本城跡
元亀2年(1571)明智光秀が築いた平城。その規模は明らかでないが、琵琶湖の水を引いて堀を巡らした、かなり広壮な城域を誇ったといわれ、天守も見事であったという。だが、城の運命は、光秀の天下と同じでまことにはかなく、天正10年(1582)光秀が山崎の合戦で敗れたあと、従弟の秀満が最後に拠って自刃し城も灰燼に帰した。以後は廃城となる。今も残る遺構は湖中に沈んだ石垣の一部のみであるが、現地に整備された公園には「坂本城址」の碑と光秀の像が建てられている。◎明智光秀(1528-82)美濃生れ。織田信長の家臣となり、丹波亀山の城主となる。信長を本能寺に殺し、山崎で秀吉と戦い、敗死。
膳所城跡
徳川家康が関ガ原合戦の翌年の1601(慶長6)年に大津城を移築して築城させ、本多氏六万石の居城として明治維新にいたる。城は典型的な水城で、二の丸・本丸・出丸が湖に突出し、土橋で北の丸・三の丸と結ばれていた。明治に廃城となり、現在は本丸跡が膳所公園として整備され桜の名所となっている。また城門は重要文化財として膳所神社や篠津神社に移築されて残っている。
近江国庁跡
奈良時代、中央から国司が派遣され、その政庁を国庁といい、近江国庁は8世紀中頃から10世紀末まであったとされる。
逢坂関跡
天下の三関と称され古歌にも詠まれた。現在は石碑のみ。
石山貝塚
淡水産の貝塚としては、わが国最大級の規模。昭和15年に発見され、昭和34年まで数次にわたり調査が実施された。現在は埋め戻されているが、石山観光協会や瀬田の埋蔵文化財調査センターなどに断面が保存されている。
皇子山古墳
前方後方墳。4世紀後半の在地首長の墓と推測される。県内でも最古級の古墳である。
百穴古墳群
山の南側に約63基の石室がみられ150基以上あったことが推定される。
弘文天皇陵(長等山前陵)
壬申の乱で敗死した大友皇子の墓。皇子は1870年に弘文天皇として追称された。1877年、長等山山麓の一古墳が陵墓として選定された。
瀬田廃寺跡
奈良時代の国分寺跡といわれている。桑畑の中から塔跡、金堂跡、講堂跡等が発見された。
崇福寺跡
天智天皇が大津京の鎮護のために創立した寺で金堂跡・塔跡などが残り、かなり大きな寺であったと考えられる。
■ Next ■