田辺城跡
細川藤孝は、天正7年(1579)一色氏を滅ぼし、翌8年織田信長から丹後十二万石を与えられて、新城を築いた。これが田辺城で、舞鶴城ともいう。慶長5年(1600)の関ケ原合戦の際、藤孝はこの城に拠って西軍と戦い、戦後、その貢賞として細川氏は豊前四十万石を与えられた。そのあと京極高知が六万石を与えられ丹後の国に入った。のち寛文8年(1668)牧野親成が京都役司代として入城、以後、明治まで十代続いた。昭和15年、舞鶴公園入口に彰古館と呼ぶ隅櫓が建てられ、平成4年には城門(田辺城資料館)が建てられている。◎細川幽斎(1534-1610)京都生れ。本名藤孝。信長に従い、丹後国を与えられる。和歌にすぐれ、古今伝授を受けた。
丹後国分寺跡
礎石が点在し、往時を今に伝えている。
丹後宮津城跡
丹後宮津城跡・宮津城大手門跡・宮津城の石
安寿姫塚
森鴎外「山椒太夫」安寿の最期の場所、里人が安寿姫塚としてその霊をなぐさめている。
山椒太夫の遺跡
山椒太夫の屋敷跡・安寿汐汲浜の碑・柴勧進の碑・身代わり地蔵
鬼の岩屋
大江山中腹にあり、その昔源頼光の鬼退治伝説となった岩穴。
安良山城跡
はじめ一色の居城であったが、応仁の乱後細川幽斎の占めるところとなった
蛭子山古墳
全長145mの前方後円墳で船形石棺の上に木造の小屋がたつ。(古墳公園内にある。)
作山古墳
4基の古墳が集まり副葬品の出土も多く貴重な資料となっている。前方後円墳・方墳・円墳など(古墳公園内にある)
弓木城跡
もとは稲富氏の居城であったがのち一色氏がここに拠った
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