鳴神貝塚
明治28年に近畿地方で初めて発見された縄文時代の貝塚。花山南麓台地にある縄文時代遺跡で土器が出土する。
四箇郷一里塚
紀州藩祖徳川頼宣が築かせた里程標で、和歌山城京橋を起点として丁度一里の距離に設けられています。元和5(1619)年和歌山の城主として徳川頼宣が入国すると,城廓の規模を拡張し,城下町の整備にとりかかったが、その時当時上方街道であったこの道路を整備し、嘉家作りの町から八軒家にいたる道の両側に松並木をつくり、一里塚を築いた。藩主が参勤交代で江戸に赴く時、藩士たちはここまで来て一行を見送り、また帰国の時もここで出迎えた。一里塚が設けられた地点については知ることができても、塚の状態で保存されているものはきわめて少なく、近世交通遺跡として貴重な存在である。
史跡紀伊国分寺跡歴史公園
聖武天皇の勅願により、天平勝宝8年(756)創建といわれる紀伊国分寺の全ての発掘調査によって確認された各遺構の規模や配置を明確に表示するため遺構の保護策を講じると共に、基壇の復元造成を行い、訪れた皆さんが歴史的事実と古代伽藍の空間イメージを体験理解でき、また憩いの場となる史跡緑地公園として現在整備しているところで、平成14年度完成を予定している。なお、塔跡の17個の礎石は創建当時のままである。
西国分塔跡
長径1.7mの心礎石を残す国分寺の塔跡。
岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群は、特別史跡に指定されている古墳数700基を超える古墳群で、和歌山市東部の丘陵位置する。古墳の保存・活用のための博物館施設、紀伊風土記の丘があり、園内には、約430基の古墳がある。一部の古墳の石室は公開され、資料館などもある。
和歌山県和歌山市岩橋1411
(2) JR和歌山駅東口からバスで(紀伊風土記の丘行き終点下車徒歩約5分)
(3) 阪和自動車道和歌山ICから車で
光恩寺庫裡
紀伊吐前(はんざき)城主・津田監物が建て、監物の法号である光恩居士から光恩の部分を取って寺名としたといわれています。初代住職の信誉上人は松平家の出身であり、紀州藩祖徳川頼宣に学問を教えた学識高い人です。入ってすぐ右にあるのが庫裡で、和歌山城の現存遺構として昭和46年(1971年)1月9日に和歌山市指定文化財(建造物)に指定されました。和歌山城の建造物で戦争で焼かれずに残っているのは和歌山城内の岡口門とこの庫裏だけで、築後400年を経ても今なお頑強そのものです。
藤白王子跡
熊野九十九王子社中の五躰王子の一つ
所坂王子跡
御幸記にところ坂王子とある
橘本王子跡
後白河法皇御幸の時当社に旅寝した
藤代塔下王子跡
御幸記に記されている
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