甲府城跡
天正10年(1582)武田氏滅亡後、豊臣秀吉配下の有力大名が、関東の徳川家康に対抗するため、重要な戦略拠点としてこの地に築城をはじめた。建設は豊臣系の有力大名によって引き継がれ、慶長5年(1600)頃、完成したと思われる。その後、柳沢吉保の時代に大増築を実施したが、亨保12年(1727)の火災でほとんど消失してしまい、それ以後、往時の姿を取り戻すことなく、今日に至っている。
信玄堤
武田信玄が命じて築造したといわれる堤防。樹齢200年を越えるケヤキの大木が多く樹立している。
武田氏館跡
武田信虎が永正16年(1519)に築き、天正9年(1581)まで信虎、信玄、勝頼がその本拠としたもので、東西284m、南北193mの内郭に土塁・堀をめぐらしている。内郭は東、中、西の曲輪に分かれ、これに北曲輪、南に梅翁曲輪がついたものであった。城というよりも代表的な居館であり、武田氏の盛時、信玄はここで8ケ国にまたがる政治・軍事の主導権を握った。いまは、土塁・堀・石垣などが残され、当時の本丸付近に武田神社がある。◎武田信虎(1494-1574)石和生れ。戦国の甲斐の守護大名。国内を平定し武田家飛躍の基礎を築く。天文10年長男の晴信に追われて駿河に隠棲。のち京都にのぼり伊那高遠城で死去。◎武田信玄(1521-73)甲府生れ。戦国時代の大名。近隣8カ国にまたがる甲斐合衆国を形成。天下に号令しようとして、大軍をひきいて上洛の途についたが、途中で病死した。
銚子塚古墳
巨大な前方後円墳。前期古墳の特色を示している。
要害城跡
永正16年(1519)に居館を石和から躑躅ケ崎の地に移した武田信虎は、翌年、詰の城として館の北方の丸山に要害山城を築いた。平時の生活と政務は館でとり、一朝事あるときは要害山城へ篭もるという戦闘用の城であった。大永元年(1521)9月、駿河の今川の将、福島正成が一万五千の兵を率いて甲斐へ侵入、油川氏の居城だった勝山城を襲撃し、ここを根城に国内を暴れ回った。背水の陣をしく信虎方は死にもの狂いで戦い、かろうじて今川勢を押し返した。このとき、信虎の妻大井夫人は出産をまぢかに控えており、戦の難をさけて要害山城に入った。戦乱のさなから誕生した戦の申し子が、後の武田信玄である。山頂の本丸跡には、「武田信玄公誕生の地」と刻む石碑が建つ。実戦を知らない山城は、武田氏滅亡後の今も山城の遺構をとどめている。要害山は国指定史跡。
加牟那塚
県下第二位の大きな横穴式石室を持つ古墳。県指定史跡。
丸山塚古墳
円墳。国指定の古墳,最近,方形周溝墓群が見つかり考古学ブームを起こしている。
上の平方形周溝墓
発掘されたままで保存されている。景観ビューポイントとしても一見の価値あり。甲府盆地の夜景はすばらしい。年間を通じ家族やグループでのピクニック等でにぎわう。博物館や東日本一の銚子塚古墳等の古墳群あり。アスレチック、テニスコート、芝広場、野外ステージを併設した県内でも指折りの公園である。
中秣塚古墳
この古墳の周辺は赤坂台古墳群といわれ、かつて約30基の古墳が存在していたといわれていますが、現在では中秣塚古墳を含め数基が残るのみとなっています。 現在の姿は平成9年に欠損した部位を補填し、復元・整備したものです
大塚古墳
荒川によって形成された扇状地の扇頂部分に築かれた古墳で、甲府盆地周辺部の古墳の中では北限の位置にあります。