米沢城址
長井庄の地頭大江時広が暦仁元年(1238)に創築したと伝わる。康暦2年(1380)伊達宗遠が大江氏(長井氏)を滅ぼして奪い、晴宗のとき天文17年(1548)本拠と定め、政宗のとき天正19年(1591)陸奥岩出山城に移る。そのあとに蒲生氏郷の部将蒲生郷安が入城、ついで慶長3年(1598)上杉景勝の部将直江兼続、のち上杉景勝が入城して上杉氏の居城となり、歴代在城して明治維新を迎えた。明治6年(1873)城郭は破却され、翌年公園として市民に開放され現在に至る。現在は堀と石垣が残っているだけであるが、その内側には上杉神社・稽照殿が、外側には松が岬神社がある。松が岬公園内は桜の名所で、市民の憩いの場所となっている。◎伊達政宗(1567-1636)独眼竜の武名を響かせ奥羽を席捲。天正19年、豊臣秀吉の命で出羽米沢から陸奥へ移封。玉造郡岩出山を居所とし、慶長6年から仙台に新城を築く。◎直江兼続(1560-1619)越後生れ。上杉景勝に仕えて名家老の誉れ高く、関ケ原の戦いには石田三成と呼応、その家康への挑戦状は有名。◎上杉景勝(1555-1623)越後生れ。戦国大名。謙信の養嗣子。豊臣政権の五大老に列し、会津に転封。関ケ原の戦いに西軍に呼応、家康の打倒を図ったが敗戦して米沢へ移封。◎上杉鷹山(1746-1822)日向国高鍋藩主の子。江戸中期の米沢藩主。米沢藩の財政建てなおしをはかり、殖産興業・新田開発などを奨励、成功した。倹約の逸話は有名。興譲館を設立。
小松城址
越後街道と長井街道の交差する要所に位置する小松城は、鎌倉時代に長井氏家臣舩山因幡守によって創建され、戦国時代にかけて米沢城の重要な支城の役割を担った。伊達時代には大町修理亮が七代にわたり治め、その後天文の乱で活躍した宿老桑折播磨守、朝廷より奥州守護代に任じられた牧野久仲ら文武兼備の重臣が城主を務め、外交の席で連歌の宴が催された。 元亀元年(1570年)小松城主牧野久仲の実父である中野宗時は連歌に興じていて米沢城に出仕せず、謀反を企て遠藤基信の暗殺を計ったが失敗し、小松城に篭城して小松城の戦いの舞台となった。(元亀の変)
北山原殉教遺跡
3代上杉定勝の重臣甘糟右ェ門信綱一族ら57名の切支丹殉教の地。
長者屋敷遺跡
縄文中期の住居遺跡。
大石
源義家の伝説が伝わる花崗岩の大岩石。
宮遺跡
縄文中期のものと推定される。住居遺跡。
大日板碑
高さ幅40cm,厚さ6cm〜9cm。「胎茂界大日如来の種子」を刻んである。個人宅敷地内にあるため、見学の際は必ず事前に問合せ先に連絡して、了承を得て下さい。
平山の締切堤防遺構
稲荷森古墳
全長約96m、県内第1位・東北第6位の大きさをもつ前方後円墳。史跡公園として整備。
二色根古墳
横穴式古墳。県の史跡に指定。
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