鳥取城跡
因幡守護山名誠通が天文14年(1545)に築いたと伝わるが否定の説がある。天正8年(1580)山名豊国(禅高)が羽柴秀吉に降るが家臣は従わず,豊国のみ城を出る。翌9年毛利家の部将吉川経家が入城するが,秀吉に攻められ落城,宮部継潤が入る。慶長5年(1600)池田長吉が入城,近世城郭の基礎を築き,元和3年(1617)池田光政が入城して城と城下町を整備する。寛永9年(1632)池田光仲が入城,子孫相ついで明治にいたる。現在は,天守閣と渡櫓門の跡,古井戸,二ノ丸跡に城門と石垣が残る。◎吉川経家(1547-81)室町後期の武将。吉川元春に従って尼子氏討伐に功あり。鳥取城の守将となるが,豊臣秀吉の攻撃を受け,篭城4カ月に及ぶも援軍なく開城,自害して果てる。◎池田光仲(1630-93)鳥取藩初代の藩主。治政に努め,鳥取市街の完成,治水の整備等をなす。『太平記』を好み,名和公の顕彰を心がける。◎鵜殿長春(1659-1730)鳥取に生る。江戸前期の鳥取藩家老。職に在ること30年,藩政に大いに貢献す。学問を好み,林鳳岡,伊藤仁斎に学ぶ。◎池田久姫(1726-1800)紀伊徳川家の生れ。第四代藩主宗泰公夫人。夫亡き後,三代にわたって幼君をよく教養補佐し,尼将軍に比せられる。桂香院と称す。◎乾長孝(1741-98)江戸中期の鳥取藩家老。在職36年,事務練達,藩政大いに挙がる。学を好むこと厚く,儒仏百家に通じ,『大道微言』『長孝志』など,著述甚だ多し。◎池田慶徳(1837-77)第一二代鳥取藩主。水戸斉昭の五男として生れ,14歳の時池田家に入る。幕末多事の時にあって,人材を登用して藩政の改革を行い,治績大いに挙がる。
若桜鬼ヶ城跡
若桜城ともいわれ,城跡の整備や植樹が行われ,春秋のハイキングコースになっている。本丸,二ノ丸,三ノ丸,ホウズキ段などの曲輪が石垣とともに残っており,中でも「行き止まり虎口」「廊下橋」などは全国的にも珍しく,県指定史跡文化財に指定されている。
梶山古墳
中国地方で初めて発見された彩色壁画を有する日本最古の変形八角形墳。
防巳尾城跡
戦国の世,吉岡将監という戦さ上手の地侍がいて,天正9年(1581)の鳥取篭城戦の際,しばしば秀吉軍の背後を衝いて苦しめた。秀吉軍は何度か攻めたが撃退され,7月の大攻勢では逆に千成びょうたんの馬印を奪われるという屈辱を味わわされた。秀吉はここで鳥取城同様,城を遠巻きにして兵糧攻めに持ちこんで,ようやく城兵を四散させた。現在は,公園となっている。
因幡国庁跡
大伴家持ゆかりの国庁跡。史跡公園として整備。
雁金城跡
秀吉が鳥取攻略をしたときの激戦地。
太閤ヶ平
秀吉鳥取城攻略の本陣跡で千成瓢箪土塁跡が残る。
太閤平
別名本陣山。鳥取城餓え殺しの際、本営を築いた場所。秀吉鳥取城攻略の本陣跡で千成瓢箪土塁跡が残る。
伊福吉部徳足比売墓跡
土葬から火葬ヘ移る墓制の変遷を知る貴重な遺跡。
栃本廃寺塔跡
奈良時代に造られた2塔を有する寺院跡。
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