ひめゆりの塔
ひめゆり部隊は、昭和20年3月、軍の要請によって師範学校女子部、第一高女生徒320名で結成され、南風原陸軍病院に特志看護婦として配属された。彼女らは常に地下水のしみる狭い壕内で看護活動を続け、食事の世話から遺体の埋葬まで17〜8才の乙女には痛ましいほど働き続けたという。部隊の南下にともなって彼女らの中からも死傷者がではじめた。塔のそばにある洞窟は、南下した第3外科壕のあったところで、敵軍に包囲され一歩も外へ出ることができず、自決する者や、アメリカ軍の毒ガス攻撃で、約200人の生命がうばわれた。女子部生徒211名及び職員16名を合祀している慰霊塔である。
中本鮮魚店てんぷら
鮮魚店から始めたお店が、いつの間にかもずくを用いたてんぷら屋さんに大変身。今でも鮮魚店は存続しているが、特に力をいれているのがこの「てんぷら屋」なのだ。紅いも、もずく、魚など、沖縄でとれる海藻や野菜をてんぷらにすると、とてもおいしい。値段も安いと人気で、小さい子もよく買いにくる。
平和の礎
緑に囲まれ、爽やかな風が吹くここ摩文仁の丘平和祈念公園。半世紀前、沖縄は激しく悲惨な第二次世界大戦の舞台となった。国内外を問わずこの戦争で犠牲になった住民・兵士の名前が刻み込まれた礎が並んでいる。平和の広場の中央では慰霊の日に平和の火が灯され恒久平和の祈りを込めて世界へ向け発信される。
ヤハラヅカサ・浜川御嶽
ヤハラヅカサ:琉球開闢の神アマミキヨがニライカナイから上陸した際の第一歩を印した場所と伝えられている。浜川御嶽とともに国王や聞得大君が四月の稲穂祭に参拝したところです。浜川御嶽:ヤハラヅカサに上陸したアマミキヨが仮住したところ。
平和の塔
沖縄本島最南の喜屋武岬にある第62師団管下の部隊は、喜屋武の複廓陣地において、進行を続け米軍に対して第五の迎撃を続けたが、昭和20年6月20日、喜屋武部落周辺で全滅した。昭和27年10月、地元民は部落内やその周辺海岸に散在する将兵並びに住民の遺骨1万余柱を収集して、名城ビーチの西海岸に納め、平和の塔を設立、さらに昭和44年3月、(財)沖縄協会の助成を得て、現在の場所に改修移転した。
仲村渠樋川
地元だけでなく各地から涼を求める人々の憩いの場となっている。
垣花樋川
昭和60年に環境庁の名水百選に選ばれた、カー(湧水)で、かつて村人がゆききした石畳の坂道やコンコンと湧き出るヒージャー、特に坂道の途中にある中休み(ナカユクイ)石からの眺めがすばらしい。
沖縄県南城市玉城字垣花川原
玉城城跡
沖縄開闢の神「アマミキョ」が築いたといわれる伝説の城で王朝時代は国王自ら五穀豊穣等を祈願した由緒ある場所。13〜14世紀頃の築城とされるが不明。標高約181mの城で一、二、三乃郭からなる。一乃郭以外は戦後米軍が建築用材として持ち出し現在はほとんど残っていない。撮影は生涯学習課の許可が必要。
白銀堂
「よりあげ御嶽」とも呼ばれる聖地。「シロガネの御イベ」という航海安全と豊漁を司る氏神が祀られています。南側に巨大な「イビ岩(神岩)」があり、「根人(ニーチュ)」と呼ばれる神官が毎年1月や、旧暦5月4日のハーレーの祭祀を行っています。
小谷の石畳道
昔の人々の知恵による堅固で美しい道。琉球石灰岩が敷き詰められています。
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