臼杵石仏
臼杵市南西部にある石仏群で、そのうち59体が国重要文化財に指定される。石仏は、ホキ・堂が迫・山王山・古園の4群に大別され、いずれも平安から鎌倉時代の造仏と推定される。
府内城跡
通称、荷揚城。慶長2年(1597)に福原直高が大分川河口近くに築城を始めた。しかし、わずか1か月で改易となり、早川長敏に代わった。同6年に竹中重利が入って増築し、それを機会に、それまでの荷揚城の城名を府内城と改めた。このあと、寛永11年(1634)に日根野吉明が、万治元年(1658)に松平忠昭が城主となり、日根野・松平氏の時代が続いた。白雉城ともいう。現在は、石垣・土塀、橋などが補修・整備されて公園となっている。県指定史跡。
勝光寺
宝篋印塔、不動明王(木像・座像)
臼杵城跡
丹生島城・巨亀城とも呼ばれる。築城当時は丹生島と呼ばれる孤島上の城郭で、周囲の海が天然の要塞となり、堅固な守りを誇っていた。キリシタン大名として有名な大友宗麟の居城であっただけに、石垣にはアルファベットの様な文字が刻まれ、城内には礼拝所が、城下にはノビシャドと呼ばれるキリシタンの修練所があったという。大友氏の滅亡後、江戸時代には稲葉氏の居城として修築が重ねられ、一時は34の櫓・三層四階の天守台があったと伝えられる。現在は2つの櫓と書院の庭園の一部、石垣などを残すだけで、丹生島も埋め立てによって陸続きとなっている。サクラの名所としても有名。◎大友宗麟(1530-87)豊後大友氏二十一代の大名。一時、九州の北6カ国を支配。キリシタン大名としても有名。臼杵で洗礼を受け、ドン・フランシスコという。◎大友吉統(1558-1605)豊後大友氏最後の大名(二十二代)。秀吉の朝鮮出兵で、3番手の黒田長政の指揮下に入る。退却を急いで隊を乱し、文禄2年、秀吉に国を奪われ幽閉の身となる。
亀塚古墳
大分県内最大の前方後円墳。
佐伯城跡
日田から転封された毛利高政が、1606(慶長9)年に築城し、以後、毛利氏十二代の居城となった。現在は、本丸、二の丸、北の丸などの石垣や、三の丸の立派な楼門が残る。本丸跡に国木田独歩の碑が立つ。◎毛利高標(1755-1801)佐伯藩主。佐伯文庫を開き、和漢洋の珍書八万冊を集める。孫高翰は、これらのうち27,000余冊を幕府の昌平・楓山両文庫に献上。
高瀬石仏
大分川の支流、七力橋を渡って5分のところにある。本尊の大日如来像を中心に馬頭観音・大威徳明王などが並ぶ。平安中期の作と推定され、彩色が鮮やかに残る。国指定史跡。
大友宗麟の墓(宗麟公園)
天正11年(1583)大友宗麟は津久見に切支丹天徳寺を建てて隠居し,信仰生活に入ったが,同15年島津に敗れて没した。宗麟の死後200年を経た寛政年間(1789〜1801)に荒れはてていた墓を建て直したものと伝えられる。昭和52年には建築家磯崎新氏の設計のもと、キリスト教式の墓が建てられた。墓地公園では、春は桜、秋には紅葉と、四季折々の景観が楽しめる。
丹賀砲台跡
豊後水道一体の要所として、重要な役割を果たした丹賀砲台。巡洋艦「伊吹」のキャノン砲が備え付けられていた。
曲石仏
石窟正面異壁に像高3mの釈迦如来像、入口の両側に多聞天、持国天を刻んでいる。
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