箕輪城跡
大永6年(1526)平城天皇を祖とし、在原業平三十代の長野信業が創築。長野氏三代40年居城の後、武田信玄に奪われた。その後、織田、北条氏の支配下に入り、天正18年(1590)徳川家康の重臣井伊直政の居城となった。直政は城郭の拡張、城下町の整備を施したが、慶長3年(1598)高崎城に移って廃城となった。現在は、本丸・二ノ丸・城門跡・堀・土塁などが残る。◎長野業正(1489-1561)箕輪城主。剛勇をもって鳴る典型的武将。上杉謙信に属し、西上州を支配。子の業盛の時武田信玄に攻められ滅ぶ。◎井伊直政(1561-1602)家康の家臣で徳川四天王の一人。彦根藩井伊家の祖。父は遠州井伊谷の豪族で今川氏の家臣であった。赤備隊として有名。
女堀
十二世紀初頭頃に開削された、農業用水路。
再築前橋城土塁跡
厩橋城は、永禄3年(1560)上杉謙信の関東経略の拠点となった。謙信没後、武田、織田氏、さらに小田原合戦によって徳川家康の所領となった。明和5年(1767)廃城となったが、慶応3年(1867)松平直克が再築前橋城に帰城。
金山城跡
文明年間(1469〜87)に岩松家純が築城したとされる山城である。当時は全域を石垣で築き、軍用貯水池をもつなど難攻不落といわれる。その後、由良氏、北条氏の手に移ったが、1590(天正18)年廃城となった。現在、本丸・二ノ丸・三ノ丸などの跡があり、本丸跡の後背斜面の石塁の一部や、軍用貯水池だった日ノ池・月ノ池などに往時を偲ぶことができる。また、本丸跡には新田神社が立つ。
高崎城址
慶長3年(1598)、徳川家康が井伊直政に命じ、開通直後の中山道の要衝和田城跡に築かせた平城で、元和5年(1619)に入城した安藤氏三代77年のうちに全城郭が完成した。安藤氏は寛永10年(1633)に起きた徳川忠長幽囚自刃事件の責めを問われ重長、忠長は切腹を命じられた。現在は外堀の一部がわずかに残る。◎井伊直政(1561-1602)家康の家臣で徳川四天王の一人。彦根藩井伊家の祖。父は遠州井伊谷の豪族で今川氏の家臣であった。赤備隊として有名。◎徳川忠長(1606-32)徳川秀忠の三子で、駿河・遠江・甲斐・信濃のうち五五万石を領し、駿河に住んだ。兄家光に対抗したため罪に問われ自殺した。
前橋城車橋門跡
前橋城に係る門跡として残る唯一のものである
土橋門
土橋門とは、館林城の牙城部(中心部)に通じる三の丸に設けられた門で、正門の千貫門に対し、こちらが通用門でした。門前の内掘に掛けられた「土橋=土手橋」から、この名が付けられたと言われ、防御用に黒色の鉄板が打ち付けられていたことから、「黒門」という別称も。城下町・館林のシンボルとして、昭和57年に城壁とともに復元されました。
生品神社境内
新田義貞が鎌倉攻めをした時に旗挙げをした地とされる。
観音山古墳
二子山型式古墳、全長90m前方部巾57mくびれ部巾39m後方部巾54m、公園として復元整備されている。
天神山古墳
全長210mの前方後円墳で規模は東日本随一。
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