一乗谷朝倉氏遺跡
戦国の雄朝倉氏が築き上げた城下町跡。国の特別史跡・特別名勝、出土品は国の重要文化財に指定されている。発掘が進み,館跡礎石,唐門,南陽寺跡,武家屋敷などが復原されている。
福井城址
慶長9年(1600)の関ケ原の戦ののち,越前六十八万石を領して入封した結城秀康の築城になる。以来,徳川氏の親藩として秀康以降,越前松平氏代々の居城となり明治に至る(最後は三十二万石)。城は,北ノ庄城の北方600メートルの新北ノ庄に築かれた平城で,規模は姫路城に匹敵する偉容を誇ったと伝えるが,度重なる火災で天守をはじめ主要建造物を焼失した。現在は石垣と堀を残すのみで,本丸跡には県庁舎が建っている。◎結城秀康(1574-1607)浜名郡雄踏(宇布見)生れ。徳川家康二男。初代福井藩主。豊臣のち結城氏の養子となる。関ケ原の戦に宇都宮で在陣,上杉を抑えた功により越前に封ぜらる。◎松平忠直(1595-1650)大坂生れ。福井二代藩主。大坂夏の陣に越前藩兵を率いて参戦,大坂城一番乗りの功名をたてる。◎松平慶永(1828-90)江戸生れ。号春嶽。福井一六代藩主。政事総裁職となり,幕政改革・公武合体・雄藩連合政権樹立を目指し活動。王政復古後は,徳川宗家救済に大尽力。
一乗谷城跡
文明3年(1471)越前の守護朝倉孝景が,一乗山とその谷間をそっくり城塞化して築いた山城。以来,朝倉氏五代103年にわたって国内統治の中心となり,独特の武家文化を育んだが,義景のとき,織田信長に攻略されて落城,朝倉氏の滅亡とともに廃墟と化した。城址は,昭和43年の発掘調査でその全貌が明らかにされ,「一乗谷朝倉氏遺跡」として,国の特別史跡・特別名勝に指定されている。◎朝倉孝景(1428-81)坂井郡黒丸城生れ。別名敏景。守護斯波氏を押えて越前を掌握し守護職に任ぜらる。戦国大名の典型。初代一乗谷城主。◎朝倉義景(1533-73)一乗谷生れ。五代一乗谷城主。一乗谷に京風文化の花開かす。織田信長と対立,浅井氏と結び対抗し大敗。大野で自刃。
史跡白山平泉寺旧境内
白山信仰の越前側の拠点寺院。創建は養老元年(717)年と伝えられ、中世には四十八社・三十六堂・六千坊が建ち並び、寺領は九万石・九万貫に達したという。天正2年(1574)には一向一揆の焼き討ちにより全山焼失した。平成元年(1989)からの発掘調査では、中世では全国最大の石畳道や多数の僧坊群など一大宗教都市としての遺構が確認され、かつての境内全域約200ヘクタールが国の史跡に指定されている。
北の庄城址
天正3年(1575)柴田勝家が足羽川北岸の足羽御厨北ノ庄の地に築いた平城。九層の天守をもつ豪壮な構えを誇り,城下町も安土城の二倍はあったと伝えるが,築城九年目に羽柴秀吉によって落城,焼失した。城址は石垣を残すだけ。勝家を祀る柴田神社には,長槍を手にした勝家,お市の方の像が立つ。◎柴田勝家(1522-83)尾張生れ。織田家宿将。朝倉滅亡後,越前北庄城主となり北陸経営。信長の没後,秀吉と対立,賎ケ嶽の戦いに敗れ自刃。◎丹羽長秀(1535-85)尾張児玉生れ。安土桃山期の武将。信長重臣,のち秀吉と結び,若狭一国及び近江二郡を領す。柴田勝家滅亡後,越前一国及び加賀二郡を領し,北庄に居城す。
神の足跡
昔この地域が大干害にみまわれた時、神様が村人を救うため海から水をくみ上げた際の足跡
西山光照寺跡
一乗谷入口にある朝倉時代一の大寺跡。3,000体にもおよぶ石仏のみ残る。
三室遺跡
福井県を代表する縄文遺跡。九頭竜川の氾濫をさけた三室山(標高176)の山麓から西側の台地上にかけて広がる。およそ4,500年前の縄文時代中期後半から後期を中心とするもので、竪穴住居や、石を環状に並べて祭祀を行ったと考えられる配石遺構などが発掘されている。また、三室山の山頂には、中世の平泉寺と対峙した一向一揆の砦跡が残り、一帯が史跡公園となっている。
王山古墳群
弥生〜古墳時代の古墳群。麓にあった村の有力者たちの墓で、邪馬台国時代の鯖江を知る貴重な遺跡です。
兜山古墳
神明町の台地にあって、周囲に濠を巡らした直径役70m、高さ8m、二段築成の円墳で北陸地方最大。
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