蔦の細道
かつて在原業平が「伊勢物語」の中で、この宇津ノ谷越えを「駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」と、ツタやカエデが生い繁る峠の寂しさを歌ったことから、「蔦の細道」という地名が生まれた。この地名は、鎌倉時代の『東関紀行』や『十六夜日記』にも登場する。ハイキングコースとして整備された現在の蔦の細道は、標高200mの頂上に在原業平の歌碑が建てられ多くのハイカーで賑わっている。
旧東海道
丸子と岡部の宿の間にあり、旅人の往来をさまたげていたのが宇津ノ谷峠。その東海道の道巾を広げ、現在のルートが整えられたのは、豊臣秀吉の小田原征伐のときといわれる。江戸時代になり、さらに形が整えられ、参勤交代や旅人の往来は活発になった。馬頭観音や峠の地蔵堂跡などが今でも残り、往時を偲ぶことができる。