登呂遺跡
登呂遺跡はJR静岡駅南口から南東約2kmにあり、約2000年前の弥生時代の遺跡として全国的に有名である。昭和18年(1943)、住友金属が軍需工業用地として埋立工事中、弥生時代後期のものと思われる丸木舟・住居跡・水田跡などを発見、戦後になってから本格的な調査が始められた。その結果、住居跡12、倉庫跡2、約1万2,000坪(400a)の水田跡の存在が明らかにされ、多数の土器・木器類が見つかった。現在、登呂遺跡は国の特別史跡に指定され、住居や倉庫が復元され、史跡公園となっている。登呂遺跡内にある登呂博物館には、縄文時代から弥生時代を経て近代に至るまでの農業や生活の移りかわりを伝える資料が展示されている。
駿府城址
前身は駿河守護今川氏の駿府館といわれるが館の所在地については諸説ある。駿府館は永禄11年(1568)武田信玄の攻撃により焼亡。このとき今川氏滅びる。天正10年(1582)武田氏滅亡して徳川家康が駿河を領有、同13年城を修築して翌年浜松城から移る。家康関東移封後、中村一氏が入城。江戸開府後の慶長12年(1607)家康が大改築して隠居城とする。家康没後、頼宣・忠長などが城主となるが、明治まで幕府が直轄した。現在は駿府公園として市民に解放され、テニスコート等がある。◎徳川家康(1542-1616)三河岡崎城主の松平広忠の長男。今川義元の人質として駿府で育ち、義元の敗死後独立して岡崎城主となる。のち遠江・駿河・甲斐・信濃を領有し、天下取りの基を築き、晩年は駿府で没した。◎徳川忠長(1606-32)徳川秀忠の三子で、駿河・遠江・甲斐・信濃のうち55万石を領し、駿河に住んだ。兄家光に対抗したため罪に問われ自殺した。
片山廃寺跡
奈良時代の駿河国分寺の跡と思われる史跡。
安倍城跡
井伊城とともに南朝の拠点となった城跡で城主は狩野貞長。
賎機山古墳
浅間神社境内の円墳で多くの遺物が発見された。
手越原古戦場
足利直義と新田義貞が戦ったところ。
丸子城址
室町時代後期の山城址。濠や土塁・曲輪などが残っている。
久能山城址
永禄11年(1568)駿河に侵入した武田信玄が、戦略上の重要性からこの城を築いた。天正10年(1582)3月、武田氏滅亡後、徳川家康が領し、家康の異父弟松平勝俊が城主となり、のち豊臣麾下の中村一氏が拠った。関ケ原合戦後、家康の臣榊原清政、その子照久が城番をつとめた。
持舟城址
室町時代後期の山城址。