五合庵
各地での厳しい修業を終え、越後に戻った良寛が寛政5年(1793年)頃から約20年過ごした庵。もとは国上寺本堂を再建した客僧萬元上人が毎日米五合を給されていたことに由来。良寛はここで托鉢に出たり、座禅をしたり、多くの漢詩・長歌・短歌を生み出したとされる。
銀山間歩(※坑道跡)
寛永18年、湯之谷郷の源蔵が発見したのに始る。会津との国境争いを経て、高田藩による採掘がはじまり、安政6年閉山になるまで断続的に採掘された。
朝日山古戦場
河井・岩村の会談決裂後、北越戊辰戦争は激化していきました。死闘が繰り広げられた朝日山では、両軍の大砲小銃が間断なく響きわたったといわれています。山頂付近にはフランス式塹壕や野営地の跡があります※山頂へは山道ですので滑り難い靴でお越しください。
村山半牧自決の地
三条市に生まれた半牧は、天誅組の大和での挙兵の失敗後郷里にのがれた。戌辰の役で幕府軍の追及を受け、明治元年6月14日身を寄せていた元町近藤家の裏山で失意のうちに自決した。
米納津隕石落下地記念碑
天保8年(1837年)轟音を響かせて水田に空から巨大な隕石が落下してきました。跡地には記念碑が建てられています。また複製品が、燕市長善館史料館に展示されています。
下倉山城跡
魚野川と破間川の合流点に近い、会津街道沿いの要衝の地にあり、戦国期上杉方の重要な山城であった。昭和52年3月31日に新潟県の指定文化財(史跡)とされている。
鷹待城跡
室町が慶長年間の越後戦国史に登場する穴沢氏の居城で、長峰式の山城であった。鏡ケ池から登り、展望の良い城跡公園となっている。
俎板平城跡
地元では「根小屋城」と呼ばれ、堀切、土塁、井戸などの遺構がみられます。観応2年下野国(栃木県)の宇都宮代綱が越後守護となり、多功肥後守がそれに従って入国し、俎板平城に拠ったとされています。
須川城跡(桂ヶ瀬城跡)
一書には御館の乱で佐藤甚助・同与五左衛門の一族がここに拠り、栃尾衆を迎え撃ったとある。口碑には内膳正某と伝えられ、曲輪、土塁、空堀など遺構が見られる。
おこり塚板碑群
南北朝時代のもので5基並んで建てられ、すべて川原石を用いた越後板碑です。おこり塚の由来には、塚を粗末に扱うと祟りがあるなど、一種の民間信仰からきたという説などがあげられています。昭和39年水田改良により現在地に移された。
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