桑名城址(九華公園)
揖斐川河口付近にある。1601(慶長16年)年本多忠勝が10年を要して築城した。のちに代々松平氏の居城となり,5代目藩主定綱の時城郭が完成した。封地がほぼ正方形で東の一辺だけ湾曲していたので,扇城と呼ばれた。明治維新後城郭は破壊され,現在は九華公園と名を変えて,桜・ツツジ・菖蒲の名所になっている。一角に松平定信・定綱を祭る鎮国守国神社があり,楽翁公百年祭記念宝物館には2人の遺品を保存している。◎松平定敬(1846年-1908年)高須藩主松平義建の子として江戸出生。桑名藩主として兄容保と共に佐幕運動に挺身。鳥羽・伏見の戦いに敗れ,津藩知事に永預り。晩年は日光東照宮宮司となり,波乱の生涯を終った。◎本多忠政(1575年-1631年)徳川家康に仕え,1590年の小田原の役に16歳で初陣,父忠勝とともに岩槻城を攻める。関ケ原の戦では徳川秀忠に従い真田氏を攻撃した。
七里の渡跡
熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
白鳥塚古墳
日本武尊の御陵といわれている。
亀山城跡
天正18年(1590年)、岡本宗憲がそれまであった関一政の居城を廃して、新たに築城。平山城で3層の天守を構えたが、のちに廃され、本多俊次の時、その天守跡に多門櫓が建てられた。城主も目まぐるしく交替した。現在の石垣は岡本氏時代のもの。現在、外堀と野面石で築いた石垣の一部、それに多門櫓が残され、あとは公園・神社・学校などになっている。多門櫓は平時には武器庫として使用された。周辺は松並木や侍屋敷の遺構なども残り、往時を伝えている。グループ単位であれば事前申し込みにより多門櫓の内部見学可。
神戸城跡
神戸城は天文20年(1551)神戸具盛によって築城され,のちに織田信長の子信孝が安土城にならって壮大な天守閣を築いた。現在は天守台の石垣と堀だけが残っている。◎織田信孝(1558〜1583)伊勢神戸城主・神戸具盛の養子となる。父は織田信長。父の死後は兄信雄とともに後継者たらんとして秀吉側の秀信と争ったが敗れ,柴田軍に属した賎ケ岳の戦にも勝利なく,秀吉の意をうけた信雄から自刃を命ぜられ,尾張知多郡内海の野間正法寺で果てた。
石薬師一里塚
江戸幕府の里程標識。
野村一里塚
県内に現存する唯一の東海道一里塚。樹齢約400年の椋の巨木が残る。
霧山城址
この地は吉野と伊勢神宮のほぼ中間で,まわりを険しい山で囲まれた小盆地である。北畠親房の子顕能が盆地中央の山麓に居館を建て,標高560m,眺望雄大な山頂に霧山城を築いた。以後,八代具教まで北畠氏の本拠であった。天正4年(1567)具教が死ぬと,この城も焼き払われた。
明合古墳
双方中方墳。全国唯一の形式で主墳と陪塚5つあり。
日永の追分
伊勢街道と東海道の分岐点。道標,常夜燈などが残る。
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