小谷城跡
大永年間の初期(1520年代初期)浅井亮政の築城と伝えるが、正確な年代は不明。城は湖北の要害をもって知られる小谷山に築かれた山城で、亮政・久政・長政の浅井氏三代が居城したが、天正元年(1573年)織田信長に攻められて落城。浅井氏も滅亡した。落城後、城は木下藤吉郎秀吉に与えられたが、同4年、秀吉が長浜に移ったため、以後は廃城となった。現在、城址には本丸跡や馬洗池・桜馬場などの跡があり、石塁も残っている。◎浅井長政(1545年-73年)東浅井郡小谷城主。信長の妹お市を妻としたが、信長が朝倉氏を攻めると盟約を守って信長と姉川に戦い敗れた。のち信長に城を囲まれ、父久政らと共に自刃。◎淀殿(1567年-1615年)小谷城主浅井長政を父に、織田信長の妹お市の方を母として生れる。父母の死後、秀吉の側室となって秀頼を生み、家康に抵抗して燃える大坂城内で自刃。
長浜城跡
織田信長は、近江(滋賀県)小谷城の浅井長政を滅ぼすと、その旧領湖北3郡を木下秀吉に与えた。近江は、信長が京都に至る要地である。秀吉は軍事・交通を配慮して、天正2年(1574年)から約1年をかけて琵琶湖畔の今浜に新城を築き、信長の一字をとって地名を長浜と改め、城下町を建設した。城址に、築城当時を想定した天守閣が昭和58年に建てられた。◎豊臣秀吉(1536年-98年)尾張中村生れ。幼名日吉丸。信長の草履取から立身出世。伏見城を造り城下町を形成。また御土居を築いて京都を洛中と洛外に分離。方広寺大仏殿をも建立。
佐和山城跡
石田三成の城で知られるが、築城の起源は古い。鎌倉時代に近江の守護佐々木定綱が砦を築いたのに始まり、以後、六角・京極・浅井氏とこの地の支配者がかわるたびに城主もかわった。織田信長以後も丹羽長秀・堀秀政・堀尾吉晴と相つぎ、天正18年(1590)三成の入城となる。城も本格的な結構をみるのは三成の時で、その堅固ぶりは「三成に過ぎたるもの」とまで謳われた。だがこの城も関ケ原の戦の2日後に落城。戦後入城の井伊直政により廃城された。今は山腹にわびしく石田群霊碑を残すだけである。◎丹羽長秀(1535-85)尾張児玉生れ。安土桃山期の武将。信長重臣、のち秀吉と結び、若狭一国及び近江二郡を領す。柴田勝家滅亡後、越前一国及び加賀二郡を領し、北庄に居城す。◎堀尾吉晴(1543-1611)尾張生れ。戦国武将。豊臣秀吉に仕え戦功。豊臣家三中老の一人。関ケ原戦後出雲へ入封、広瀬富田城から松江へ移り、松江城と近世城下町を創る。◎石田三成(1560-1600)坂田郡石田生れ。豊臣政権の五奉行の一人。治部少輔、佐和山城一九万四千石の城主。関ケ原で徳川家康と戦って敗れ、京都の六条河原で刑死。◎井伊直政(1561-1602)家康の家臣で徳川四天王の一人。彦根藩井伊家の祖。父は遠州井伊谷の豪族で今川氏の家臣であった。赤備隊として有名。
賎ケ岳及び大岩山古戦場
賎ケ岳合戦の古戦場。山頂には古戦場の碑がある。
横山城跡
ハイキングコースになっていて、秀吉と石田三成の出会いの場である観音寺が麓にある。横山城がいつ頃から築城されていたかは明確ではないが、江北一帯に勢力を持っていた京極氏の支城であったのを永正14年(1517年)に浅井亮政が攻め落としている。小谷城主・浅井長政が永禄4年(1564年)に改築、大野木茂俊を武将として入れた。姉川合戦で、織田、徳川軍が横山城を攻め、木下藤吉郎秀吉を城代として入れた。そして3年後の天正元年(1573年)ついに信長は小谷城を侵略、浅井氏を滅ぼした。現在、横山城は、本丸跡、空堀、土塁が残っており、横山城に関連する砦跡も確認されている。
姉川古戦場
織田・徳川と浅井・朝倉とが姉川をはさんで死闘をくり広げた地。慰霊碑が建てられている。
垣籠古墳
応神天皇の皇子の墓と推定される。出土品が多い。近年、古墳を巡る周溝が確認されている。
茶臼山古墳
自然の山を利用した前方後円墳で湖北最大である。
依智秦氏の里古墳公園(上蚊野古墳群)
公園内にある「百塚古墳」は直径15mの円項横穴式石室。古墳群は当初196基あったが現在は10基。うち2基の見学ができる。
滋賀県愛知郡愛荘町上蚊野地先
(2) 名神八日市ICから
(3) 名神彦根ICから
勝楽寺城跡
高筑豊後守が築城した趾、仕置場,経塚の遺跡がある。
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