本宮大社旧社地
大斎原にあり桜並木に囲まれて石祠が残る静謐の地。熊野本宮大社がもともとあった場所。明治22年8月の水害で流されました。
熊野本宮大社旧社地大斎原
熊野本宮大社がもともとあった場所。明治22年8月の水害で流されました。
近露王子跡
熊野へのちょうど中継地であるため、宿場として栄えた近露王子跡が立派に残っている。中継地としての地位は今も変わりなく、このあたり一帯が自然休養村。
発心門王子跡
熊野九十九王子社の五体王子の一つ。
伏拝王子跡
熊野九十九王子社の一つ,現在は石造の小祠が残されており熊野本宮大社旧社地をはるかに望むことができる。
祓所王子跡
最も本宮大社に近い王子社で,潔斎所としての役割。
水呑王子跡
熊野九十九王子社の一つ,今は碑が残されている。
新宮城(丹鶴城)跡
北は断崖で新宮川を眼下にし、東は太平洋を望み、南西部は堀を隔てて城下を見下ろす、という要害の地につくられた平山城であった。1618(元和4)年に浅野忠吉が築城に着手、1633(寛永10)年にほぼ完成、1667(寛文7)年水野重上のときに修復・拡大された。築城以前この山に丹鶴姫開基の東仙寺があったため丹鶴城と名付けたと伝える。代々水野氏三万五千石の居城としてつづいたが、明治維新で城は取り壊された。◎水野忠央(1814-65)江戸藩邸に生まれる。紀州藩新宮城主。幕末期、紀藩執政として幕閣に縦横画策、幼主菊千代(家茂)を将軍職に就かせる。のち幕府の政変により失脚。吉田松陰は忠央を評して「水野奸にして才あり、世すこぶるこれを恐る」という。『丹鶴叢書』158巻を編纂。
蓬莱山
徐福伝説と結びつけられている祭祀遺跡。阿須賀神社のご神体。
近露王子
王子の中でも最も早く現れた王子のひとつで、後鳥羽上皇が和歌会を催したと記録されています。
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