菅沼合掌集落
9棟の合掌造り建築物がいまも残っている。
高岡古城公園
慶長14年(1609)加賀二代藩主前田利長公が隠居城として築いたが、完成を見ぬうちに、一国一城令により廃城となった。縄張は、当時前田家の客将であった高山右近。そのためか他の城郭と異なって、本丸を、二の丸・明き丸・三の丸・鍛屋丸という名の曲輪が、縦に並んだ形で守備するという、風変わりな構築であったという。今、城址は広大な古城公園となっていて、外堀と石垣の一部が残っている。◎前田利長(1562-1614)名古屋市生れ。武将。利家の長子。織田信長に認められ、越中府中の城主、越中守山城主、また金沢城主となるも、富山城に隠居。慶長14年高岡城を築き、慶長19年没。
越中国分寺跡
薬師堂が当時の姿を忍ばせる。
漁民義人塚
漁民一揆の際,磔刑に処せられた首謀者の霊を弔った塚。
放生津城跡
越中守護名越時有が築城した。平城で本丸・二の丸・三の丸の構造を持っていたと言われている。城は戦国末期の文禄元年(1592年)に廃城となり、現在は放生津小学校校庭にある「城址」と彫られた自然石がその名残を留めている。
増山城跡
守護代神保氏が、砺波のポイントに増山城を置いたが、天文7年(1538)長尾為景の猛攻に五箇山中へ逃げ、同15年には為景を倒したという。以来、たびたび上杉の攻撃に遭い、天正8年(1580)には成政の救援で安堵したものの、成政の敗退により富山城へ去った。
倶利伽羅古戦場
石川県境,倶利伽羅峠の東側にある源平合戦の古戦場。源義仲が牛の角に松明をつけ、平家10万の大軍に戦勝したと言われている。
井波城址(古城公園)
瑞泉寺が仏の教えを広め寺を守ろうと城を構え礪波地方を治める中心となったが、佐々成政に敗れ、豊臣秀吉の越中征伐の時、前田利家に攻められ廃城となった。
桜谷古墳
前方後円墳2基,円墳7基,4〜5世紀初頭のものと推定。
弓の清水古戦場
木曽義仲の伝説で知られる。
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