水子貝塚公園
黒浜式の大規模な貝塚で,六十数ケ所に及ぶ地点貝塚。(国指定の史跡)。また,展示館・復元住居などがあり,小学生でも分かるように貝塚の説明がされている。敷地面積約4haの広い園内には,一周約600mの園路,芝生広場,約2000本の高木も植栽されている。
川越城跡
本川越駅の北東約1.2km,新河岸川の右岸に面した台地端に残る平山城の遺構である。長禄元年4月(1457年)太田道真・道潅父子が鎌倉の管領職たる扇ケ谷上杉持朝の命を受けて築いたもので,江戸城の本城として名城を謳われ,幕末期には城下も小江戸と称されるほどのにぎわいを示した。一名,初雁城といわれ,難攻不落といわれたが,現在,本丸御殿のみが残されている。本丸御殿は桁行19間,梁間5間,屋根入母屋造り,棧瓦葺き。武家造り風の堂々たる建築である。県の文化財に指定されている。◎太田道潅(1432-86)扇谷上杉の執事。持資と名のる。山内上杉の臣長尾景春と戦い,鉢形城(寄居町)・秩父日野尾城を攻めて平定した。◎松平信綱(1596-1662)小室生れ。智恵伊豆と称される。忍城主から川越城主となり幕政を指導した。野火止用水を作って入間郡を開発,新河岸川の舟運を興し,川越街道をつくる。◎柳沢吉保(1658-1714)江戸中期の老中。川越城主となり入間・新座・比企・高麗・埼玉五郡を統治。三富新田を開発。
蕨城跡
長禄元年(1457)将軍足利義政の命で渋川義鏡が築いた。その後,北条氏の支配下に入り,永禄10年,渋川氏は北条方の救援軍として下総国府台で里見氏と戦って戦死し,一族はちりぢりになった。北条氏ののち関東に入部した徳川家康は,城を御鷹場御殿として利用した。
河越館跡
西と北の土塁,東側の堀跡が往時の面影を残す。
堀兼之井
平安時代の歌人が歌に詠んだ堀兼の井の一つといわれる。
七曲井
入曽駅の北約500m,不老川のほとりにある。鎌倉時代前期の建仁2年(1203年)の創設と伝える。すり鉢状井戸の遺構で,当時水不足に悩んだ住民が,井戸を掘る技術が未熟だったため,地面をすり鉢のように広く掘り下げ,斜面に小道をつけて最深部に井戸ワクをつけたものである。この井戸は,面積50平方mあり,すり鉢状井戸としては現存する県内唯一の遺構である。県の史跡に指定されており,昭和46年に復元された。
新郷貝塚
淡水産の貝を主体とした貝塚。三つの貝塚が馬蹄形に点在している。
見沼通船堀
見沼通船堀は徳川吉宗の命を受けて、井沢弥惣兵衛が享保16年(1731年)に完成させた日本最古の閘門式運河である。これは見沼用水と芝川とに約3mの落差があるため、間に二カ所の閘門を設けて、船を上下させた。通船は毎年12月15日から翌年の2月15日まで見沼代用水縁辺の村々から米・麦・野菜等の産物を舟によって、江戸に運び、帰りには肥料・日用品などを積んで帰った。現在では巨大な木製閘門(枠)が復元されている。国指定史跡。さいたま市文化財保護課(048)829-1723
小手指ケ原古戦場
新田軍と鎌倉幕府軍の合戦が繰りひろげられた。碑が建つ。
滝の城跡
この城は、大石定久の養子北条陸奥守氏照の滝山城(永禄13年、八王子城に移る)の支城であった。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城を包囲し、北条方の諸城を攻めさせたおり、八王子城と前後して落城した。
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