板取宿
天正6年、柴田勝家が道を改修してから栄えた。北国街道の入口として初代福井藩主結城秀康以来、関所を設け旅人を取り締まった。現存する民家の茅葺き屋根は甲(かぶと)造り型でとても珍しいもの。
朝日山古墳群と古墳公園
通称朝日山に5世紀頃の築造と見られる前方後円墳,方墳,円墳が90基近く散在。
神明ケ谷須恵器窯跡
山の斜面を利用して作られた登り窯。つぼ,かめ,杯などを生産したといわれる。平安時代後期の須恵器窯跡。要予約。
城山
南北朝時代の古戦場の遺跡,三面六臀の愛染明王が祀られている。
杣山城跡
別名「北の比叡山」。南北朝の争乱期に,南朝方の拠点としてその名をあげた城。延元元年(1336)新田義貞が恒良・尊良両親王を奉じて金ケ崎城に入ると,城主瓜生保ら一族はこれに呼応して挙兵。保は金ケ崎城救援に赴く途中に戦死するが,残った照・重兄弟らが立て篭って防戦。翌2年,金ケ崎城を脱した義貞が入城するに及んで,その後の北陸における南朝方最大の拠点となったが,同3年,力つきて落城した。現在,本丸・二ノ丸跡の土塁や殿池が残っている。◎新田義貞(1301-38)建武中興時の武者所長官。のち越前に下向して吉野方の頽勢を立て直すべく,足利軍と各地に激戦。灯明寺畷で戦死。◎瓜生保(?〜1337)南条郡杣山生れ。越前に下向した新田義貞に呼応し挙兵。金ケ崎城に篭城する新田軍を救援すべく進軍の途中,足利軍と遭遇して戦死。
燧ケ城址
寿永2年(1183)木會義仲が,部将仁科守弘に築かせた城。北は越前平野を一望にし,南は木ノ目峠を経て,近江へ抜ける交通の要地。城跡は,新羅神社の背後愛宕山の尾根。援軍にきた平泉寺長史の斎明が,利あらずと急に寝返り,平家へ内通したので,平家に破られた。南北朝のころ,今庄入道浄慶が居城する。
蓮如上人旧跡
北陸巡錫のときに迫害から難を避けたといわれる地。
木ノ芽峠
北陸道として、往還の道となっていた峠には、茅葺き屋根の茶屋があり、1200年の間、越前の玄関口として番所の任に前川家が当たった。この一帯は、度重なる古戦場として使われ、一向一揆の頃の城址も多く、歴史的にも非常に興味を持てる峠である。