はらほげ地蔵
6地蔵は六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)において衆生の苦患を救うという六種の地蔵である。海女で有名な八幡の海中に祀られている。自然石の頭部で、腹が丸くえぐられているので、はらほげ地蔵と呼ばれている。何時、誰が、何のために祀ったかははっきりとしたことは分からないが、遭難した海女の冥福のため、鯨の供養慰霊のためなどと伝えられている。胸の穴は、満潮になって地蔵が水没して供え物が流れないように、船から供え物ができるように、あるいは流行の疫痢退散祈願のためなどと言われている。
少弐資時の墓
1281年(弘安4年)、4万もの蒙古東路軍が対馬を襲い、次いで壱岐に攻め込んできた。二度目の襲来、弘安の役である。北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ったのが、当時の壱岐守護代、弱冠19歳の少弐資時であった。船匿城に居た資時は、わずかな軍勢で激戦を繰り広げたが全滅したと言われている。少貳公園の松林の中に資時の墓がある。展望台の近くには防人の烽火台や、弘安の役の碇石がある。周辺にはキャンプ場や遊歩道もある。
河合曽良の墓
俳人芭蕉門下10哲の1人として有名で奥の細道の旅に随行した曽良。巡国使の一員として壱岐に渡り,勝本浦の中藤家で宝永7年5月22日没す。墓は勝本町能満寺にある。城山公園の一角「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」との句碑が残っている。
長崎県壱岐市勝本町坂本触
男岳神社石猿群
男岳山頂近くの神社。猿田彦命が祭神。家内安全、合格祈願、子宝祈願など、願掛け、成就に奉納されたものである。最初は牛の健康、繁殖を祈願し石牛を奉納していたと言われる。今では石猿が多く200体を超える石猿が石壇上に並ぶ。男岳は山自体が御神体で人は入山できなかったが、現在では車で行くことができる。境内には展望台も設けられている。
遣新羅使の墓
736年、聖武天皇の御代に遣新羅使一行の一人だった雪連宅満の墓。宅満はこの地で志半ばに病死しましたが、彼のことが万葉集巻十五に歌として残されています。
安徳天皇御陵墓
安徳天皇御陵墓の参考地となっている。
銅像如来坐像
統一新羅時代9世紀頃制作された貴重な仏像。国の重要文化財に指定されている。
対馬ヒオウギ王国
美津島町の特産品「ヒオウギ貝」を広くPRするため、王国を昭和58年11月に建国。ヒオウギ貝はイタヤ貝科の2枚貝で帆立貝、イタヤ貝の仲間。食用として養殖されている。(刺身、バター焼、フライ等が美味しい。)
木造仮面
宗甲斐六郎の墓
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