南宗寺
弘治3年(1557)、和泉・河内の代官として堺を支配した三好長慶(みよしながよし)が父・元長の菩提を弔うため、宿院の南方に創建した臨済宗大徳寺派の寺。大阪夏の陣で焼失、元和3年(1617)住職の沢庵和尚により、現在地の南旅篭町に再建され、現在に至っている。承応2年(1653)建立の仏殿、正保4年(1647)建立の山門(甘露門)、江戸時代初期建立の唐門は、国の重要文化財。本尊として釈迦牟尼仏を安置。茶道の大成者、千利休や武野紹鴎(たけのじょうおう)らがここで修行したといわれ、昭和35年(1960)7月に再建された利休好みの二畳台目の茶室「実相庵」(じっそうあん)や、遺愛の手水鉢などが残っている。また、江戸時代初期に作庭されたと思われる、枯山水の庭園がたいへん美しい(国指定名勝)。
方違神社
崇神天皇8年(西暦前90)12月29日、勅願により創建されたと伝えられる。摂津・河内・和泉の三国の境の「三国山」と呼ばれる地(現:三国ヶ丘)にあり、奈良時代には人馬往来の要衝だった。また平安時代には熊野への参詣者が必ず立ち寄り、旅の安全を祈ったという。どの国にも属さない、方位のない清地として、古くから境内の土や砂が悪い方位を祓う=方災除けの神として信仰を集め、いまも家の新築や転居の際の厄除け祈願に大勢の参拝者が訪れる。出かけなければならない方向が良くない時に、一度別方向に向かってから出かける方違い(かたたがい)の風習によって、お参りする人も多い。毎年5月31日のちまき祭は故事にならい、菰(こも)の葉で包んだちまきが氏子らに配られる。
槙 尾山施福寺
和泉市の槙 尾山(標高600メートル)の山頂手前(標高485メートル付近)にある古寺。約1450年前、欽明天皇の勅願により、行満上人によって開かれたとされる。修験道の開祖・役行者が、書写した法華経を葛城の峰々に安置し、最後の巻尾をこの地の如法峯に納めたことから「巻(まき)の尾(お)」と呼ばれ、これが山号の槙尾に変化したという。行基や空海もこの山で修行を積んだと伝えられ、往時は約3000人の僧を抱える大寺だったが、天正9年(1581)に焼失。その後、豊臣秀頼によって再興された。本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像は毎年5月15日に開扉される。山麓からの参道は観音八丁と呼ばれる厳しい道のりだが、2005年12月より、ふもとの「槙 尾中学校前」から小型バスが運行。日祝日は7往復、土曜と平日は4往復している。終点の「槙尾山」下車、徒歩30分。
葛葉稲荷神社
JR阪和線北信太駅から南西へ300m、「葛の葉伝説」にまつわる狐が祀られている神社。千年余り前、大阪の阿倍野の里に阿倍保名(あべやすな)という男が住んでいた。豪族だった父が、だまされて所領を没収されたため、保名は家の再興を願い、信太明神に日参していた。ある日、保名が狩人に追われた白狐を助けたところ、葛の葉と名乗る女性が現れる。やがて保名と葛の葉の間には童子丸(後の陰陽師・安倍晴明)という子が誕生するが、童子丸が5歳の時、葛の葉の正体が白狐であることがわかってしまう……。葛の葉が障子に書き残した歌「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」は、あまりにも有名。この物語により、同社には子宝を願う人などが多く訪れる。
祥雲寺
寛永年間(1624〜1643)に堺の豪商・谷正安(たにしょうあん)が創建、沢庵宗彭(たくあんそうほう)が開山した臨済宗大徳寺派の寺。明治末期まで、境内に「五葉松」があったことから、「松の寺」とも呼ばれていた。寺は第二次世界大戦で焼失し、昔の面影はないが、谷正安の依頼によって描かれた67才時の沢庵肖像(国の重要文化財)や「釈迦二声聞像」(しゃかにせいしょうもんぞう:堺の重要文化財)などが残っている。また、境内には、大阪府指定の名勝のひとつである庭園が。庭全体を平らとする平庭式の枯山水様式の庭園で、土塀寄りに石組を配置し、手前に広い白砂空間をとるという江戸時代の様式がその特徴だとか。空襲に焼け残った石組をもとに整備されたこの庭園からは、作庭当時の姿を偲ぶことができる。
脇浜戎大社(高おがみ神社)
今宮戎や西宮戎と並んで、三大戎神社として知られる、泉州で最も古い戎社。脇浜・二色浜海岸一帯は、古来より豊かな漁場と白砂青松の景勝地として知られ、奈良・京都の都に近いことから、宮中で食事などを司る「内膳司」という役所によって御漁場が置かれていた。平安時代の『延喜式』によると、この地から毎月「子の日」と「巳の日」に塩漬けの鯛・鰺・干し魚や魚の内臓でつくった調味料など二十石六斗を毎年、都の役所へ納入するように決められていたという。戎社は網曳御厨の守護として創祀されたと伝えられ、御厨の領地内二ケ所に「事代主命」が戎神として祀られてきた。明治時代、水の神とされる高おかみ神社が合祀されたあとも、泉州地方の人々から「脇浜のえべっさん」と呼び親しまれている。十日戎では、福笹を買い求める人など、毎年4万人近い人が訪れる。当日、「柴灯大護摩供」も行われ、無病息災を願って多くの人が炭火の上を歩く「火渡り修行」をする。南海電車「貝塚駅」もしくは「二色浜」駅から徒歩20分。
多治速比売神社
梅林で著名な荒山(こうぜん)公園に隣接する、多治速比売神社(たじはやひめじんじゃ)は、530年ごろに創建され、多治速比売命(たじはやひめのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、そして学問の神様で知られる菅原道真が祭神として祀られている。多治速比売命が女神であることから、安産、縁結び、厄よけにご利益があるといわれる。天文10年(1541)に建てられた本殿は、細部に、龍・雲・波・蟷螂(カマキリ)・海藻・貝類など多種類の彫刻・彩色が施されており、建物への彫刻技術などが飛躍的に発展した安土桃山時代の建築様式を先取る建物のひとつとして、たいへん貴重なものだ(国の重要文化財/見学には予約が必要)。また、境内では、梅や桜、新緑、紅葉など四季折々の景色が楽しめる。10月の秋の例大祭では、7台のだんじりが勇壮に街中を曳き回される。
大阪府堺市南区宮山台2-3-1
蔭凉寺
このお寺の本堂建設には、その建材の一部として、豊臣秀吉の居城だった伏見桃山城の古材が用いられています。天井は「血天井」としても知られ、飛び散った血や鎧のあと、手形などが残っています。また、境内にある2本のギンモクセイは、開創(1661年)の記念に植えられたもので、府の天然記念物に指定されています。
水間寺
天平年間(729〜749)、聖武天皇の勅願により行基が開基したと伝えられる。寺号は、葛城山から流れてくる近木川と、その支流の秬谷川が合流する地形(水間)に由来する。最盛期には七堂と僧坊百三十余を有する大伽藍を誇った。天正13年(1585)、豊臣秀吉の兵火で焼失し、現在の本堂は文化8年(1811)に再建されたもの。本尊は「厄除の観音さま」として信仰が厚い。開山以来行なわれている伝統行事「千本搗(つき)」は、長い棒を持った人々が臼を囲んで餅をつくという行事。行基が十六人の童子(観音の化身)に誘われて観音像を授けられ、聖武天皇、光明天皇の行幸の折、歌に合わせて棒で餅をつき、本尊に供えたことが始まりといわれている。
妙国寺
宝珠院の向かいに位置する妙国寺は、当時摂津・河内・和泉の三国を支配していた三好豊前守之康から寺地と蘇鉄(ソテツ)の寄進を受け、日蓮宗学僧の日?が永禄5年(1562)に開山した寺。大坂夏の陣で焼失した本堂は、寛永4年(1627)に復興されたが、堺の大空襲で再び灰燼に。また「堺市事件」で、フランス人水兵らを殺害した責任を負って土佐藩士11人が切腹した場所でもある。境内には、創建時に寄進された樹齢1000年を越す蘇鉄が、いまも生き続けている。高さ5m以上、大小120数本の幹枝を数える大木は、国の天然記念物。かつて、織田信長がこの蘇鉄の見事さを気に入り、安土城へ移植させたところ、蘇鉄は毎夜「堺へかえろう、堺へかえろう」と泣いたという。それを聞いた信長は、激怒して幹を切りつけると、蘇鉄は血を流して苦しんだため、元の妙国寺へ返したという伝説がある。
■ Next ■