南海本線・蛸地蔵駅
南海本線ではほとんど残っていない、非常に珍しい大正時代の駅舎。天窓のステンドグラスは、戦国時代、岸和田城と雑賀衆の合戦で、蛸にまたがった法師と蛸の群れが、敵を退散させた「蛸地蔵物語」をモチーフにしている。
南海高師浜線 高師浜駅
南海鉄道本線の羽衣駅を出て、ゆるやかにカーブしながら海へと向かう高師浜線。1.5kmを走るこの支線の終点駅が、高師浜駅(たかしはまえき)だ。駅舎は、大正8年(1919)に開通したこの支線とともに竣工され、モダンなデザインが自慢。設計・施工者は不詳だが、入口の上部にはめ込まれた海に鳥が舞う様子を描いたステンドグラスは、かつて名勝・高師浜の風景を詠った和歌からのものだとか。昭和45年(1970)、高師浜線の高架化とともに解体されそうになったが、地元の熱意により駅舎部分は残され、現在も利用されている。周辺は昭和30年代まで西日本有数のリゾート地として栄えた場所だ。いまは閑静な住宅地を、細い路地に沿ってのんびり歩いてみよう。
がんこ岸和田五風荘
旧岸和田城主岡部氏の新御茶屋跡で、明治維新後、寺田利吉氏が1929年から10年の歳月をかけて造り、1950年、五風荘と名前を改めた邸宅。凛然と佇む建物は、立派な主屋と3つの茶室がある、風情豊かな回遊式庭園。茶室は木津宗匠師の設計によるものとされ、特に山亭は形の美しい自然石を礎石とし、その上に茶室が建てられている。日本建築の粋を集めた主屋の屋敷からは見事な庭園が見渡せ、落ち着き感のある池や優美な造形を見せる山亭、雪見灯篭など、その配置の妙は不思議と見る人の気持ちを和ませます。
泉佐野ふるさと町屋館(旧新川家住宅)
18世紀末の江戸時代、農民、漁民、商人、手工業者からなる町場が形成され、独自の町人文化を開花させていた泉佐野。当時、醤油業を営んでいた旧新川(にいがわ)家の住宅は、妻入り錣葺き(しころぶき)の、間口がゆったりと広く柱や木組みが野太い農家建築で、当時の泉南地域の建築様式を伝える貴重な建物として泉佐野市の文化財に指定されている。平成10年に修理工事が終了し、「ふるさと町屋館」としてオープン。館内には江戸・明治期の商いや生活の様子を伝える展示がされ、町屋の暮しぶりを間近に見ることができるほか、江戸後期の文人絵師「日根對山(ひのたいざん)」の襖絵も残されている。座敷や仏間を有料で借りることもでき、茶道や華道の会、陶芸展なども随時開かれている。
旧天王貯水池
レンガ造りの建築物で、水道施設の先進国であるヨーロッパの古典様式に倣った凱旋門風のデザイン。内部は点検用の通路を挟み、両側に5つの貯水槽が作られ、半円筒のヴォールト天井となっている。貯水槽の周囲には土を盛り上げ、直射日光などをさえぎることで、細菌の養殖を防ぎ水質の安全を図った。堺における上水道の歴史の一端を知る、重要な建造物。写真提供:堺市
自泉会館
自泉会館は1932年(昭和7)、岸和田紡績の2代目社長、寺田甚吉が設立し、会社の社交場などに利用していたものを、1943年(昭和18)岸和田市に寄贈したものだ。関西建築界の草分け建築家、渡辺節の近世スパニッシュ作品で、1997年(平成9)に登録文化財に指定されている。現在はギャラリーも付設され、文化活動の場として利用されている。ホールでは年数回ピアノやオルガンのコンサートが開かれる。ホールと会議室、展示室は市の内外を問わず、文化活動であれば誰でも利用できるのでお問い合わせを。
山口家住宅
山口家は代々庄屋で、この辺り一帯を治める豪農だったという。屋号もあり越前屋がそうだ。この住宅は堺の町が大坂夏の陣で焼け野原になった後、江戸時代初期に建てられたものらしい。樹齢数百年と思われる大きな“はぜの木”に土蔵が覆われ、静かな住宅街にあって重厚な雰囲気を醸し出している。現在、内部は非公開。
高林家住宅
白壁の土塀で囲まれた屋敷で、藁葺き屋根の母屋に土蔵や不動堂、稲荷社があり、敷地全体が江戸時代近畿地方の庄屋の屋敷構えがよく残っている建築物。1500年代後半の天正年間に建物の柱や梁が残されているが、増改築によって座敷や玄関などが整えられ、18世紀終わり頃、現在の姿になったと伝えられる。
片桐棲龍堂
名前の「棲龍堂」は、龍の名前のものが住む館という意味と、風水学での龍穴の上に建てられた館という意味を持つ。豊臣秀吉に土地を賜り、桃山時代からこの地に館を構えており、館は伝統的な木造二階建ての江戸時代後期建築の母屋、嘉永年間の東ノ蔵、中ノ蔵、文化年間のしつ二階風母屋、幕末の建設と伝えられる洗い場、明治時代に移築された鎮守社、現漢方資料館である西ノ蔵が登録有形文化財。漢方資料館は国内外から研究者が訪れる程、貴重な資料が展示されているが、残念ながら一般非公開。
鉄砲鍛冶屋敷井上家住宅
江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗。1689年の元禄ニ年堺大絵図にも店舗の記載がある。堺にただ1つ現存する当時の鉄砲鍛冶屋敷。現在部屋となっている母屋の北側は鍛冶場で、南の家を次々と入手し鍛冶場を広げ、大座敷を設けたよう。江戸初期から末期に亘る鉄砲鍛冶の生活の実態を知る上で貴重な建物。
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