大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)
全長約486m/後円部径約249m/高さ約35m/前方部幅約305m/高さ約33mの日本最大規模の前方後円墳。『延喜式』は、この古墳を「百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名し、現在は宮内庁が第16代仁徳天皇の陵墓に治定・管理している。墳丘は3段に築成され、左右のくびれ部に造出し(つくりだし)があり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたもの。明治5年(1872)、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿などが出土した。また、アメリカのボストン美術館には、本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されているほか、円墳周囲には、「陪塚」(ばいちょう)と呼ばれる、小型古墳10基以上も確認されている。本古墳は、日本最大の前方後円墳であることが間違いないそうだが、一方では、最近の発掘調査で、造出しから須恵器の甕(かめ)の破片が出土したりしていることから、考古学的には、本古墳が5世紀半ば〜後半につくられた可能性が高く、仁徳天皇の陵であるとすることに否定的な見解が唱えられているようだ。約2.8kmの周遊路が整備されており、一周するには1時間かかる。
百舌鳥古墳群
堺市のやや北部に位置し、かつては100基以上あったといわれるが、現在は大仙公園を挟んで、仁徳陵古墳(墳丘長486m)と履中陵古墳(りちゅうりょうこふん:墳丘長360m)、東側にいたすけ古墳(墳丘長146m)、御廟山古墳(ごびょうやまこふん:墳丘長186m)、ニサンザイ古墳(墳丘長290m)、北側に反正陵古墳(はんぜいりょうこふん:墳丘長150m)ほか、合わせて48基が残っている古墳群。その多くが巨大な前方後円墳で、4世紀末ないし5世紀初頭〜6世紀後半頃に、大王墓として築造されたと思われる。なお、百舌鳥(もず)という名前は、『日本書紀』によると、かつて石津原(いしづのはら)と呼ばれていたこの地に仁徳天皇陵を造営する際、工事にかかった人たちの中に鹿が飛び込んで倒れ死に、その鹿の耳から、耳の中を食い裂いた百舌鳥が飛び出したため、地名を「百舌鳥」に改称したという。これらの古墳群の全体を眺望するには、堺市役所新館の展望ロビーがおすすめだ。
土塔
大阪府堺市土塔町に位置する大野寺は真言宗の寺で、奈良時代の高僧・行基が建立した四十九院のひとつ。その大野寺伽藍の南東に仏塔の跡が遺されている。一辺が53.1m、高さ8.6m以上の四角錘の頂部を切り取ったような形をしたこの仏塔は、周囲から夥しい瓦が出土していることから、もともとは13段のピラミッドのような形をした、瓦葺きの土製の塔だったと考えられている。また、出土した瓦のうち約1200点には、丹比連(たじひのむらじ)、秦、矢田部連(やたべのむらじ)といった摂河泉地域の氏族や僧侶、一般民衆ら、築造に協力した人たちの名前らしき文字が描かれている。全国的にも、これだけ多くの古代の文字資料が発見されるのは珍しいとのこと。よく似た遺構に、奈良市高畑に残る石積みの「頭塔」があるが、大野寺の土塔のように表面が瓦で覆われた塔は他にない。昭和28年(1953)、国の史跡に指定された。
西陵古墳
その規模は全長約210m、後円部直径約115m、前方部幅約100mを誇っている。墳丘は三段築成で現在も良く残り、西北側のくびれ部には「造り出し」を有している。古墳の周濠は、いつからか農業用水の溜池としても利用されており、周辺の畑には農作業に取り組む人の姿が多数見られる。
宇度墓古墳
墳丘長170メートル、前方部幅約120メートル、後円部径約110メートルで、周濠部分まで含めると全長200メートルを超える大きさを誇る。現在は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)墓として宮内庁の管理を受けているため、詳しいデータや埋葬施設などは謎のまま。
土佐十一烈士之墓
堺市の妙国寺向かい、宝珠院境内に静かにたたずむ墓。明治元年(1868)2月、フランス艦デュプレー号の水兵等が殺傷された「堺事件」の責めを追い、切腹した土佐藩士11名が眠る場所だ。大政奉還後の混乱期、土佐藩の兵士らは堺の治安維持に当たっていたが、入港したフランス軍艦の兵士らの素行を巡り、銃撃戦となった。その結果、フランス兵11名が死亡し、フランスは新政府に対して事件に対する謝罪、賠償金、加担者の処刑を要求。新政府は藩士隊長の箕浦猪之吉をはじめ20名の切腹を妙国寺にて、フランス軍艦長立会いのなか行なった。途中、切腹の凄惨さに耐え切れなくなった軍艦長が中止を要請し、9人が助命。切腹した11名の墓が、後に土佐藩主山内豊範により建立された。現在、国の史跡に指定されている。
摩湯山古墳
墳丘の長軸は約200メートル、前方部幅約100メートル、後円部径約127メートル。前方部はその長さの割に、開き具合が大きくない形式に属している。周辺の宅地造成が進んでその保存が危惧されていたが、1956年に国の史跡に指定された。現在は墳丘全体が山林となっており、外形実測はもとより墳丘内への立ち入りはできない。
久米田古墳群
岸和田市でも有数の古墳群。尾生丘陵の北端部には、台地を断ち割るように春木川が東西に流れており、そのために小台地状がいくつも形成されている。近くにある貝吹山は、戦国時代の久米田の合戦の際に、ここで陣貝を吹いたことからそう呼ばれている。久米田古墳群は、その久米田にある寺の西隣りの台地の麓にかけて存在する6基を指す。この場所は市の史跡公園にもなっていて、休日にはたくさんの人が遊びに来ている。
茅渟宮跡
日本書紀によると、この宮殿は5世紀頃の允恭天皇(いんぎょうてんのう)が皇后の妹姫にあたる「弟姫」と呼ぶ姫のために造らせた宮殿であるという。姫は生まれつき容色が優れて美しく、その輝きが衣服を通して見えたので「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」と称されていた。そして天皇はこの姫をたいそう愛していたそうである。現在、この宮跡は有志の人々により保存会が結成され、その由緒ある史跡の管理にあたっている。公園内にあるこの石碑には、きれいな花が供えられており、姫が詠んだ歌の碑も立てられている。
樫井古戦場跡
1615年、大坂城攻略を目指して熊野街道を北上してきた、徳川方・浅野長晟(ながあきら)が軍勢を率い待ち構えているここ樫井に、豊臣方の大野治房勢の淡輪重政や塙団右衛門が先方隊を率いて突入。激戦となるも豊臣方の両雄は討死、大野勢は大坂城に退却した。夏の陣の勝敗をも大きく左右したというのがこの「樫井の合戦」だそうだ。
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